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散歩にて

昨日、久しぶりにお散歩をしました☆
お天気は、晴れのち曇り。
風が強くて、肌寒い...

お散歩日和...とはほど遠い、春を感じるにも寒すぎる(^^;)
そんな天候だったにも関わらず...
自転車で移動し、移動先から
てくてくお散歩☆

道行く皆さんは、
やはり寒そうに体を縮めて、帽子を押さえたり、コートの襟を立てたり...

中には、寒さとは無関係に
短いスカートに、ハイソックス(^^)
という、学生さんもいましたが、
ほとんどの方は、春の装いとはちょっと外れた、暖かめの服装。

歩く足取りも早く、急ぎ足。

道路に面して、突き出したお店の屋根は、がたがたと風で音が鳴り...
道ばたには、どこから飛んで来たのか、スーパーのビニール袋が舞い上がって...

ふと、
なんで、こんな寒い日にお散歩しているのかしら?私...

そんな疑問がわいて来て(^^;)

帰ろうかな?...と思ったところで
小さなパン屋さんを発見しました☆

看板には何やら
「春限定の材料でつくったオリジナルパン」(?だったかな???)
のような、文字が書いてあり
興味をそそられたので、中に入ってみました。
...???
どれだろう?
春限定のパン?!(@@)キョロキョロ
あった☆
春のパン→春のトマト
(- -)
ん〜、なんか期待していたのと違うな...

春限定という文字につられて、
勝手に、山菜とか、春タマネギとか...そういう材料のパンを期待して
想像していたのですが...(^^;)>

春のトマトね☆

最近は、スーパーに行けば年中、欲しい野菜、果物などが手に入り
どれが季節限定品、いわゆる「旬」のものなのか?!というのが、
非常にわかりにくくなっていますね。
(主婦感覚目線のお話ですみません ^^;)

これは、有り難い事でもあり...
逆に
そうとも言い切れないようなことでもあり...

有り難いことという点から言えば、
いつでも食べたい物が、お金を払えば手に入るのは
単純に考えて、大変便利で豊かなことと、考える事が出来るでしょう。
ではその逆、
そうとも言い切れない...と、なんとも奥歯にものが挟まったような
遠回しな表現で恐縮ですが(笑)(便利が良し、といわれる世の中ですので)
旬を知るということは、
自分の体のリズムを知る事にも、また更に言えば、
命の尊さを考える意識にも繋がると、
私は考えているからなのです。

旬の食べ物については、多くの料理の専門家の方と
肩を並べてお話しするつもりはありません。
ですが、
その時期、その時期に
その土地で採れるもの
野菜にしても、お魚にしても...☆
大自然からの恵みによって、生業を立てている私達にとって、
その、大いなるバランスと秩序によって、もたらされている恵みに、
その恩恵に授かっているのだということを、
旬のものとの出会いによって、改めて
知る機会を得るということは、
非常に大切なことのように感じるのです。

人工的に光を当てれば、出来る野菜
人工的に餌を与えれば、育つ生き物

人間が、今までも、そしてこれからも、
食べていかなければ生きてはいけない生き物である以上、
技術的な向上によって
食物を大量に栽培、飼育する事が可能である事は
それはそれで
大変に有り難く、人間の知恵の素晴らしさを感じずにはおれません。
が、
それと同時に
それとは違う視点で
「生命力」という観点からも、
やはり、
自然の厳しさのさなかで育ち、命を育んだものたちへの畏敬の念☆
そして、
その命を、命の為に頂くという行為☆

食物から
そのような、概念を抱く事の重要さ
特に、小さな子供達にも知って欲しい、命の尊さ☆

何気ない散歩の行き先で、
私の意識は、思いがけない
大いなる旅をして来た感☆が...(^^;)
(よくある事ですが... 笑)

もう少し
暖かくなったら、ちょっと遠くへも足を伸ばしてみよう☆
部屋の中にいては始まらない、新たな思考の展開に期待して...

今日のワンポイントヨガ
☆瞑想とは何か!?☆

ヨーガに詳しい人なら、ヨーガは体操的な動きだけではなく、
瞑想するということも、ご存知だと思います。
禅宗などもひたすら座って、瞑想をする流派ですが、
一体瞑想とは、どのような目的があるのでしょうか?
ヨーガの正しい流派では、
いきなり瞑想することはありません。
まず、
戒律を守り(十の戒め)
功徳を積んでいきます。(善行を行う)
そして、ヨーガ的な教えを行じ、欲望を制御し
呼吸をコントロール出来るようになった段階で、
やっと、瞑想に入っていくのです。
これは、仏教や、チベット密教も同じで
戒を守り、功徳や善の実践、
あるいは、心を清めたのちにやっと、瞑想に入っていきます。
瞑想は、自分の内側の奥深くに入っていく実践です。
功徳がない状態(悪業優位)
欲望をある程度、統御していない状態で、瞑想して内側に入っていけば
見る世界は悲惨です。
禅宗は、功徳を積むプロセスがないので、
どれだけ内側に入っていっても、
無(暗闇)しかありません。
ゆえに、禅宗の人は、悟りの境地を
無と表現するのです。
しかし、功徳にあふれ、精神が清まった状態で経験する内側の世界は、
光にあふれた世界なのです。
無の世界とは、全く次元が違います。
皆さんがもし、
瞑想をしたいと思ったならば、
まず、準備段階として、徹底的に功徳を積む実践(他に喜びを与えるなど、善行を行う)
から、入っていかなければなりません。
そうでなければ、巷の霊能者のように幽霊をみた、とか
暗闇のみ、真っ暗な世界しか見えないという、悲惨な瞑想になってしまうのです。
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by atelier-kuh | 2010-05-12 13:01
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atelier空kuhオーナーの気ままな独り言日記


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